落研の思い出「入部」
二〇〇四年春、東北学院大学に入学。すぐさま落語研究会に入った。
大学受験の時から落研に入ることだけは決めてたので、春のサークルの新歓活動が始まるとすぐに落研のブースに向かった。
その時、たしか四年生の臺地乃めぐみ先輩(だいちのめぐみ、勿論これは芸名)がいらしたはず。私のように、自ら進んで落研に入ろうとするような若者はまず居ないので、「落研に入りたいんですけど」って言ったら若干戸惑っておられたのを覚えている(引いてた?)。
落語がやりたくて落研に入るというのはやはり珍しかった。たいていがお笑いが好きとか、なんとなく勧誘されて楽しそうだったからとか、そういうので入る。
先輩達も、落語というものは落研に入ってから識ったという方ばかりだった。
その年の新入部員は私含め2名だけ。同期の手玖手玖亭鮎六(てくてくていあゆむ、勿論これも芸名)君は、何で落研に入ったんだっけ? 理由は聞いたような気がするけど忘れちゃった。
他に見学に来ていた一年生も、何人かは居たように思う。
新歓活動の西公園でのお花見に、そういう入部希望者みたいなのが何人か居たような気もする。酔っ払った奴がめぐみさんの靴にゲロ吐いて、めぐみさん帰り困ってたような、なんかそんな事があったような気もする。記憶違いかも知れないけど。
でも私の代は、結局鮎六君と私の二人だけ。後から私の学部の同級生が二人入部したので私の代は四人居るんだけど、三年生になってからの入部だった。
当時の落研は、四年生四人、三年生三人、一年生二人(私の代)。なんで私の代に部員が入らなかったら存続の危機でもあった。
鮎六君が入らなかったら一年生は私一人だけ。もし同期居なかったら大変だったろうと思う。落語は独りでも楽しめるけど、サークル活動は一人じゃ出来ない。
当時東北学院大学はキャンパスが三つ。
土樋キャンパス、泉キャンパス、多賀城キャンパス。多賀城キャンパスには工学部があり、そちらの学生とは基本的に交流が無かった。サークルも、(土樋・泉)(多賀城)と分かれてたはず。
文学部や経済学部、法学部の学生は、二年生までは泉キャンパスに通い、三年生になると土樋キャンパスに通う。教養学部は四年生までずっと泉キャンパス。
落研では各学年の負担を考慮して、前期は泉キャンパスで、後期は土樋キャンパスで活動していた。でも本拠地は土樋キャンパスの部室というイメージだった。
前期泉キャンパスで、というのは一年生(新入部員)が参加しやすいようにという配慮もあった。
後期になると秋の学園祭、冬の定期落語会があるので、準備を考えるとやはり土樋部室のほうが活動しやすかった。
私達一年生の指導のために四年生が土樋から泉に通って来るのは、卒論や就活を考えると大変だったと思う。
私は卒論も就活もほぼやってないに等しい感じだったので、自分が四年生の時はなんの負担も無かったけど。
ただ、稽古をつけてくれる四年生の都合もあったから、前期でも私たちが土樋まで行って稽古会した事は何回かあったはず。土樋の部室棟の和室で、最初に習う小咄を喋った記憶がある。
泉キャンパスの部室棟は、敷地内のはじっこにあった。薄暗くて陽が入らない、カビ臭くてじめっとした感じ。年度末に大掃除したら、床拭いた雑巾が緑色になった。
部室の広さは、八畳くらいはあったろうか。
本拠地であり、また歴史のある土樋部室に比べると備品も少なく、こざっぱりしてた。
一応座布団はあった。テレビ、ビデオデッキ、CDラジカセ。テレビゲームと漫画。
漫画は、そこはやはり落研、寄席芸人伝が何冊かあった。マスターキートンは全巻揃ってた。寄席芸人伝は数冊しかなかったけど。
落語のカセットテープはそれなりにあったけど、さすがに土樋に比べたら少なかった。
小さん「松曳き」「狸賽」、圓菊「たらちね」、圓生「転失気」、こんなのがあったのは覚えてる。
当時は自前で持ってる落語のCDやテープは少なかったので、私にとって宝の山。聞いたこと無い噺ばかりだから、むさぼるように借りて聞いて、当時持ってたMDにコピーしまくった。2ヶ月くらいで全部借り終えたはず。先輩は感心しながらも少し引いてた。
とにかく落語に飢えてて、落研に入ったのが嬉しくて嬉しくて、すぐに熱中した。
親は嘆くけど、本当に落語をやる・落研に入るために大学に入った。
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