落研の思い出「初めての寄席」

生まれて初めて寄席に行ったのは落研に入ってから。

秋田の田舎で過ごしていたので、寄席どころか生の落語も落研に入るまで未体験だった。

落研では当時夏合宿を行っていた。
稽古のための合宿ではなく、落研の顧問(師匠)であった翁家さん馬師匠にご挨拶に行くため。
という大義名分と合わせて、皆で東京へ遊びに行く・寄席へ行って本物の落語を観に行く・さん馬師匠から扇子と手拭いを貰いに行く、という目的もあった。
高座扇は当時仙台で買う手段が無かったので、さん馬師匠から頂いていた。
私は最初は小円歌さんの名前が入った扇子を使っていた記憶がある。手拭いはさん馬師匠の山吹色のやつ。

東京・上野に着いたら、その足でさん馬師匠のお宅へ。
さん馬師匠は師匠である九代目桂文治(留さんの文治)の養子となり、文治師匠のご自宅にそのままお住まいであった。昔ながらの長屋。ごく近所には、昔八代目林家正蔵(彦六の正蔵)が住んでいたという。「落語に出てくる長屋はこんなイメージでやると良い」とさん馬師匠から教えて貰った。

私が生まれて初めて生で見た落語家さんはさん馬師匠。
お会いした時、ちょうど私は初高座に向けて「たらちね」を覚えていて、そのことをお話ししたら、さん馬師匠「たらちね」をひとっ節喋って下さった。ひとっ節てのも変だけど。荷売り商人の荷の担ぎ方、売り声、「ネギや~、ネギ」の鼻濁音について。

ご挨拶を終えた後、おかみさんから「うちの才賀(桂才賀師匠、さん馬師匠の弟弟子)が出てるから」と、浅草演芸ホールに行くよう勧められ、向かう。

それが私の初めての寄席体験。
最初に誰が出てたか、トリが誰だったかは覚えてない。
勧められた才賀師匠は、茶番のようなものをやってらしたと思う。凄く笑った覚えがある。

あと覚えているのは、喬太郎さんが「たらちね」をやっていた事。
前述の通り「たらちね」を覚えてるところだったので、テンションが上がった。所作とか食い入るように見入った。
他にも、ちょうど先輩が練習している噺が何本が出てたので、テンション上がって「今日は私達が稽古してるネタが出てますね! 勉強になりますね!」と先輩に話したら、周りから落研だと思われたくないのか恥ずかしそうにされていた。なんとなく落研は恥ずかしいという、すみれ荘的な空気は当時我々にもあったのだ(私以外)。

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