落研の思い出「OBさん」その二
学生時代、OBさんとの交流がたくさんあった。
私が大学二年生の時に創部四十周年記念があったので、このタイミングで「御無沙汰だったけど久し振りに落研に顔出してみるか」みたいな方が多かった。四十周年を機にそれまで活動休止状態だったOB会も再機能し始めた。そういう、人が集まり出すタイミングだったと思う。
私は落語というキーワードのお陰である程度世代を超えて先輩方と繋がる事が出来た。学生ながら色んな方と交流が出来て勉強になった。考えてみりゃ、自分より年上の人なんて、親戚か学校の先生くらいとしか接する機会無かったし、若いうちはそれが普通だと思う。色んな大人の方々と交流があったのは、良い財産だったと我ながら思う。
創部間もない頃活動していた方々は、ちょうど定年間近。仕事も落ち着き、またお子さんが居ても手が掛からない年頃だったりして、時間も取りやすかったのだろうと思う。まして、自分達が創部し、部員を増やして落研の基礎を作り上げたという自負もある。四十周年の時は、第一期生から五期生くらい、そのあたりの世代の皆さんが積極的に参加されていた。
当時六十歳前くらいのOBさんと、二十歳前の学生の私。私は落語という共通の趣味があったので、一緒に過ごしていて何の違和感も無く、また居心地悪いとかも無かった。むしろ、落語の話で誰かと盛り上がれるのが生まれて初めてだったから、凄い嬉しかった。
でも、別に落語が大好きで入ったわけじゃない他の部員は、正直あんまり積極的に関わりたくは無かったろう。気遣うし。何喋って良いか分からないし。
笑福亭文扇(しょうふくていぶんせん)さんという、落研三期生のOBさんが、ある日ふらりと土樋部室に遊びに来られた。「笑福亭」といっても上方落語のプロの方では無い。当時の落研が勝手につけて名乗った亭号で、本物の一門とは何の関係も無い。
文扇さん、約束して来られたのか、それとも突然だったのか、あんまり覚えてない。その時は学生は私しか部室に居なかったかな。誰か居たかもしれないけど、早々に帰ったのか。あんまり覚えてない。
部室内を懐かしみ、昔話なんかして過ごす。また備品のCDを一緒に吟味。「お、志ん朝のCDがたくさんあるじゃないか」文扇さんは志ん朝が大好き。「志ん朝、良いなぁ。志ん朝はやっぱり『明烏』だよなぁ。…このCD貸してくれ!」この時何枚か志ん朝のCD借りていかれた。そのまま一年くらい借りっぱなし。さすがに困ったので、文扇さんと近しいOBさんにお願いして返却の催促して貰った覚えがある。
話が盛り上がり、暗くなってきた頃合いで、晩ご飯食べに連れてってくれた。土樋キャンパスの近くにあった居酒屋さんみたいな所だったと思う。私は未成年だから呑めないけど、文扇さんは一杯やりながら、河岸を代えてまた落語談義。
「俺の一番の思い出は、寄席に行った時、当時はお客と噺家さんのトイレが一緒だったんだ。俺が用足してたら、なんと隣に圓生が来たんだ! 俺は圓生と連れションした、これが一番の思い出!」
ベロベロんなりながら、こんな話で盛り上がってた。周りからはどう見られてたか。
文扇さんと一晩一緒に呑んだというのが他のOBに伝わり(正確には私は呑んでない)、「へえ、清生はあいつと呑んで、盛り上がったのか。奇特な若者がいるもんだ
」と凄く感心された事がある。これをきっかけに他のOBさんが色々話しかけてくれるようになったような気がする。
文扇さんと一緒に活動した後輩の方々からすると、文扇さんはとても怖い先輩だったらしい。でも私はとても優しくして頂いたので怖いというイメージは無い。お年を重ねて丸くなられた、という話も聞く。また私とはかなり年も離れていたので、そういう事も関係あるかと思う。タイミングも良かったんでしょう。わたし間が良い後輩であったわけです。
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