仙台新撰落語会「桂友楽」
仙台社会人落語界の大御所、桂友楽さんについて。
東北大学の落語研究部にて活動し、のち、八代目桂文楽から「桂友楽」の名前を付けて貰う。友楽さんは黒門町のことを「うちの師匠・うちの師匠」と呼んでいた。
学生時代の芸名は「番柄亭頑固」。
最初、プロになるつもりで黒門町に行き弟子入り志願をされたらしい。が、おかみさんから「噺家は食えないよ」と諭されたという。で、黒門町に名前だけ頂いたようだ。
昭和四十一年一月八日に「番柄亭頑固改め桂友楽襲名披露」というのが仙台の三越ホールという所であったらしい。
ちなみに、前年秋に創部された我が東北学院大学落語研究会の発足表明がその会であったという。
卒業後は堅気の仕事に就く。サラリーマン時代高座に上がることはほとんど無かったと伺っている。転勤で関西の方に住んでいた時は桂米朝の落語会を観に行ったり、そういう事はあったとも伺った事がある。
サラリーマンを引退されてから社会人落語家として活発に高座に上がるようになったようだ。
私が東北学院大学の落研に在籍していた当時、東北大学の落研と合同で発表会をやっていた。その時の打ち上げで友楽さんにお会いした記憶がある。この時が初めてお会いした時だったと思う。ニコニコ常に笑顔。優しいおじいさんという印象。
私が大学卒業し、仙台新撰落語会に入ってしばらくしてぐらいか。仙台でアマチュア落語・社会人落語といえば桂友楽さんというイメージであった。
例えば、横浜から仙台に転居してきた親夜亭目ぼそ(しんやていめぼそ)さんが、仙台でアマチュア落語の活動をしたいと仙台のボランティアセンター等で相談したところ、真っ先に桂友楽さんを紹介されたらしい。
私も、出前寄席であちこち行くと桂友楽さんの名前が挙がる事が多かった。
新聞の地域欄でも、落語のイベントがあった旨の記事があり読んでみると友楽さんが出ていたり。
私の主観だけど仙台の落語=桂友楽、こういうイメージであった。
あちこちからたくさんお声がかかり、出前寄席にはかなりの数行っていたようだ。
フットワークが軽いというか、あまりこだわらずに引き受けていたらしい。
河川敷で演った、なんて話も聞いた覚えがある。屋外の、しかも川っぺりの高座なんてまるで若手芸人の営業。「全然声が届かない」って、そりゃそうだ。
地域の子供達に落語を教える活動もされていた。
青葉区八幡町の地域起こし活動で、区役所と地域の方々と組んで、地域の子供達にご指導されていた。
これの発端は私が大学四年生の時。地域おこしがテーマの東北学院大学のゼミがあり、そこが八幡町と組み、八幡町のウォークラリーを企画。その最期に八幡町にある杜の館という地域の公民館みたいな所に集まり、落語を聞いて貰おうというものがあった。それをきっかけに、八幡町・地域おこし・落語というキーワードが繋がったようだ。私はその四年生の時のウォークラリー一度きりの関わりで、その後は関わってないので詳細は分からないのだけど、東北学院大学・東北大学の落研が関わり、また桂友楽さんが関わるようになった。そして地元小学校のお子さん達に落語を教えて披露して貰うという活動になったようだ。
これはそれなりに長く続いたようだ。
また、カルチャーセンターで落語教室も持っていたはず。
青葉カルチャーセンターで教室やったのが最初だったはず。そこで参加されていた方が青葉亭軽茶と名乗り、後仙台新撰落語会にも加入された。
あとは、泉区の方でも教室を持っていたと伺った事もある。
桂友楽さんの高座について。
ネタは、最初は勿論古典落語が中心。
落研時の初高座は「大工調べ」だったそうだ。当時の先輩に叱られたそうだが、当たり前だろう。落研一年生の初高座で「大工調べ」は…。持ち時間は勿論噺の格も初心者のそれをオーバーして先輩から叱られたそうだ。
「黄金の大黒」「干物箱」「井戸の茶碗」「ねずみ」「宮戸川」「唐茄子屋政談」等伺った。
私が一時期頻繁に「つる」を掛けるので、「清生君の聴いてるうちに覚えたよ」と、「つる」もお演りになった。でも従来の「つる」ではなく、ご自分で拵えたやり取りが新たに加わっており、創意工夫があった。
一時期「カラオケ病院」を得意にお演りになっていた。五代目春風亭柳昇の新作落語。東北学院大落研の内亭とっ太(ないていとった)という私の後輩が高座に掛けて、それを観た友楽さんが「私も」とやり始めた。出前寄席で、特に落語に馴染みのない方にもウケるので頻繁に掛けていた。
仙台の歴史を題材にした落語の創作にも取り組まれていた。これは何処かから創って下さいと頼まれたのがきっかけだったはず。落語といっても地噺という形。二〇〇九年頃に「玉蟲左太夫伝」、二〇一〇年頃に「四ツ谷用水伝」、二〇一二年頃に「政宗と孫兵衛」をお演りになっていた。
私の印象としては、とにかく常に笑顔。機嫌が悪いとかイライラしている姿は見たことが無かった。そういう姿を見せなかった、という事かも知れない。
当時私も若く、恐らく失礼を働いた事もあったかも知れない。しかし、何かお叱りを受けたり、楽屋の雰囲気が悪くなったりした事は無かったと思う。肚が大きい御方だったと思う。
高座をご一緒させて頂く機会は多かった。私の落語を聞いて、何かあれば都度アドバイスをして下さった。落語について指摘して下さる貴重な先輩であった。
新型コロナウイルス流行時、ご自身高齢でもあり、ご家族の反対もあったようで、出前寄席やあちこち出歩くのはピタッとお止しになったようだ。仙台新撰落語会にも全く顔を出さなくなり、新型コロナウイルスが五類になり世間の潮目が変わった今でも全く活動の話を聞かない。
随分御無沙汰であったので、急に思い立ち今年の五月お電話をしてみた。お元気そうな様子でありとても安心した。
「あれから(コロナ流行後からは)全く落語やってませんね」「口が回らなくなるといけないから、赤巻紙青巻紙黄巻紙の早口言葉は欠かさずやってます」等伺った。
電話口ではいつもの友楽さんの明るい口調で、あのニコニコの笑顔が目の前に浮かぶようでとても嬉しくなった。
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