落研の思い出「吉原亭遊鶴」

令和六年春、吉原亭遊鶴さんがお亡くなりになった。

吉原亭遊鶴(よしわらていゆうかく)、本職に居そうな良い名前。

東北学院大学の夜学(二部)にて落語研究会を創った方(たしか遊鶴さんが創ったはず)。
当時は落研ブームで、各地の大学に落研が創られていた。
それから少し遅れて昼間のほう(一部)にも落研が出来た。夜学の落研で指導を仰いでいた翁家さん馬師匠(当時二つ目で桂文七)を遊鶴さんから紹介して貰い、昼間の方でも指導して頂けるようになったという。

私のルーツである昼間の落研のほうは、ある程度詳細な歴史が記録として残っている。
落研の五十周年記念事業があった際に実行委員会が部室に残っていた資料や各OBが保管していたパンフレットなんかを血眼になって探し集めて、それを元に記念誌を作り、OB会ホームページにまとめたおかげ(当時私は五十周年記念事業には殆ど関わっていないので正直引け目がある)。
東北学院大学落語研究会の歴史は、記念誌とOB会ホームページを見れば大体のことが分かる。

しかし、夜学の落研の歴史は、記録がほとんど残されていない。私もほとんど知らない。
昼間の落研と交流が無かったわけではないようなのだが、あまり先輩方から話を伺った記憶が無い。
唯一は、吉原亭遊鶴さんの事だけ。
遊鶴さんは社会人になってからもずっと活動を続けておられた唯一の方。お話を伺えるときに色んな事を教えて貰っていれば良かった。

以前、山川短志さん(仙台新撰落語会代表)にお誘い頂いて二人で呑んだ事があった。その時に短志さんから「家にとっておいた昔の資料で、こんなのあったから清生さん興味あるかと思って」と見せて頂いた中に、夜学の落研の公演のパンフレットがあった。
遊鶴さんが卒業した後のもので、遊鶴さんの名前は無かった。
昭和五十二年三月十八日。第十一回定期発表会。
出演者の名前は、清風亭夕顔、路亭雅無、成田家撫蝶、強風亭ハロー、三流亭志ん聞。
青春を落語に費やした人達の歴史が確かにあるのだが、どういう活動内容であったのか、どういう想いで高座に上がっていたのか、現在落語とどういう風に関わっているのか・いないのか。記録が残っていないし、それらを受け継いでいる人も居ないので分からない。

遊鶴さんのことで、私が見知っている事柄について。

仙台にて「仙台落語長屋」という団体を運営、東京から落語家を呼び、いわゆる地域寄席を長年続けていた。
この仙台落語長屋には、かつて仙台新撰落語会の山川短志(当時は風雲亭小龍)も参画。のち、短志さんはこの団体から離れるわけだが、この仙台落語長屋は主に「落語の鑑賞」を目的とした団体であったようだ。
短志さんが離れたあとも、地域寄席の活動は継続されている。
主に若手・二つ目の噺家さんを招いていたようで、真打ちになる前の春風亭小朝、六代目三遊亭円楽を呼んだ事もあったらしい。

私は社会人になった後、遊鶴さんに声がけしてもらい、宮城県登米市の能楽堂での落語会のお手伝いに従った事がある。
詳細は分からないが、遊鶴さんはプロデューサーとして関わっていたようであった。
二回、運転手として参加した。仙台から遊鶴さんと一緒に出発し、登米まで運転。遊鶴さん高齢でもあったので長距離の運転は不安であったと仰っていた。
落語会がハネた後、最寄りの駅まで噺家さんをお送りした。
八代目橘家円蔵さん、そして三遊亭歌武蔵さん・林家二楽さんの時であった。
当時私も不慣れで立ち居振る舞いがなっておらず、円蔵さんから「お前は気が利かねぇ!」とお小言を頂戴した。とても良い思い出である。

遊鶴さんはアマチュア落語家としてご自身も落語をお演りになっていた。
仙台市内の市民センターなどから出演依頼を貰い、イベントがある時に高座に上がっていたようだ。
ご本人は「毎年年賀状を仙台市内全ての市民センターに出すんだよ。そうすると、何件かは出前寄席の話が来るんだ」と仰っていた。
落語を披露する活動についても貪欲であったと思われる。
私は二度ほど、遊鶴さんの高座を拝見したことがある。ネタは「三年目」と、自作の漫談。後述するが、勿論一席終わった後はお得意の南京玉すだれであった。

遊鶴さんは「落語はとにかく明るくて楽しいのが一番だ」と仰っていた。贔屓の噺家さんも、そういう方が多かったようだ。
円蔵さんや、そのご一門の方々が好きだという話も伺った。
ご自身が落語を演る時も、そこを大事にして高座に上がっていたそうだ。お客さんが、明るい気持ちになって楽しめるようにと。

遊鶴さんで特筆すべきは、余芸としておやりになっていた「南京玉すだれ」である。
前述の、翁家さん馬師匠から教わったそうだ。
で、ご自身も南京玉すだれを色んな方に教授していたようだ。
南京玉すだれの教室を持っていたらしい。地域のご婦人方に教えていた教室は「まますだれーず」といったそうだ。もう一つは「あさっての会」であったか。南京玉すだれの掛け声から取った名前だったかな。
「さいばしーず」というのもあったような気がする。南京玉すだれの簾を菜箸で手作りして、それから取って「さいばしーず」であったか。正確な記録を遺してないので分からない。
平成二十二年に暑中見舞いのお葉書を頂戴しており、そこには「まますだれーず結成八年」とあった。ご婦人方に囲まれて一緒に南京玉すだれを披露する写真がプリントされている。
南京玉すだれを一緒にやっていた方々は、今どうされているのか。

仙台という地方都市に、東京から落語家さんを呼んで本物の芸を生で観る機会を作り、またご自身も出前寄席に出演し地域に落語を普及して歩いた。
長年仙台における寄席演芸文化を支えてきた功労者でしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。

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